【呼ばれた山】静岡県伊豆市 ― 地図に載っていない神社

【呼ばれた山】静岡県伊豆市 ― 地図に載っていない神社

【呼ばれた山】

― 偶然の重なりか、それとも必然だったのか ―

昭和33年、伊豆を襲った「狩野川台風」の復興を願い、
この地に温泉を掘ろうと決意した人々がいました。

けれども、誰もが口を揃えてこう言ったそうです。
「ここは温泉など湧かない土地だ」と。

それでも地域の人たちは信じたのです。
「ここは“姫之湯”と呼ばれている。きっと何かがある」と。

そして山の木を売り、町と県に頭を下げ、学者の知見を借りながら、
300メートルの地中へと、静かに希望を掘り進めました。

その結果、温泉は湧きました。

その記録の中に、こうあります。

「私たちが温泉を掘ろうというのは、
ここを遊興本位の温泉場にして、やたらに人を呼ぼうというのではない。
都会の人にも来てもらって文化の交流を図ろう。
農村にも新しいタイプの生活を生み出したいというところに目標がある。」
*約70年前のこの村の人たちの考え方

これを読んだとき、僕は震えました。
この考えは、まさに今の自分と同じだったからです。

大きな集客も、観光地化も望んでいません。
けれども、この場所を通じて「人と人が繋がる」ような、
そんな静かで、深い場をつくりたいと思っています。
ここに来る人どうしが繋がり、そして何かが始まる。
「商売」という言葉の奥にある、
“世の中を一歩だけ前に進める”ような本当の営み。
それを実現するために、僕はここに来たのです。

山頂に、神社があった

そして、数年前に引っ越して来てから知った事があります。
この施設の裏山、その頂上に、小さな神社があるということです。

30分ほど山を登り、険しい森の中を歩き続けると、
小さな鳥居と祠が現れます。
「金毘羅宮 姫之湯神社」——
その存在は、地図にも載っていません。
(現在姫之湯神社は少し離れた場所に移されており、これは地図に載っています)

今も地域の人々によって大切に守られており、
年に一度、お札を本宮から受けに行く人がいます。
昔はこの神社のある山頂に、地域の人々が集まり、火を囲み、酒を酌み交わしたと言います。
今ではその風景は忘れられ、道も草に覆われ、訪れる人も殆どいません。
けれど、その静けさの中にこそ、

何かが再び始まる“余白”があるような気がするのです。

 

意味のある偶然の一致

僕は、「見えない力」というのを信じています。
しかし、スピリチュアルと呼ばれる領域の話の全てを受け入れてはいません。
ユングの言う「意味のある偶然の一致」共時性と言うものはあると思っています。

・地域の人が温泉を掘ったその理由。
・「人と文化を繋ぐ場所」を作ろうとした理念。
・偶然にもこの山頂に、由緒ある神社があったこと。
・僕自身が「人と人を繋ぐ」「世界をもう一度ロマンティックにする」という理念を持ち、ここで新しい場を作っていること。

——それらをひとつひとつ紐解いていくと、
「導かれた」としか思えない。

「自分は、ここに呼ばれて来たのだ」
そう思わざるを得ないのです。

 

山そのものに、神が宿るという考え方

日本の古い信仰では、神社とは建物ではなく、
“山そのもの”に神が宿るとされてきました。

「神奈備(かんなび)」という言葉があるように、
山は古来、神が降り立つ依り代(よりしろ)であり、
そこには人が勝手に立ち入ってはならない“聖域”としての意味がありました。

人々は、ただ登るのではなく、
祈るように山に向かったのです。

なぜ山なのか。
それはおそらく、山を登るという行為そのものが、
人間の内面を整え、世界との接続を取り戻すための儀式だからです。

頂上にたどり着いたとき、
ただの疲労ではない、何か別の感覚が生まれる。
それは「孤独」と「自然」との境界が溶けた場所で、
人が最も“自分”に戻る瞬間なのかもしれません。

この山にも、確かに何かがある。
それを説明する言葉は見つからなくても、
歩けば、静かにわかります。

木々のざわめき、鳥の声、
そして道中の静けさの中に、
自分の中の“何か”が調律されていくのを感じるのです。

僕自身、この山を登るたびに、
この地に暮らす意味と、繋がっていく人々の姿が、
はっきりと見えるようになってきました。

この場所は、ただの裏山ではない。
現代に残された“小さな神奈備”であり、
目には見えなくても、心には確かに宿る場所だと、そう感じています。

 

柳田國男『山の人生』より:山の神信仰

柳田國男は、日本各地に残る「山の神信仰」を通して、
山は“異界”であり、人と神とが接触する場所であると述べています。

山には年に一度、神が下りてきて田の神となり、春を告げる。
そして秋には再び山へと帰っていく。
これは山と里の間に循環する神のリズムであり、
日本人の暮らしと祈りがいかに自然と繋がっていたかを示す証でもあります。

山の神は、ただ“信仰の対象”ではなく、
生きるリズムの中で感じられる存在だったのです。

 

ミルチャ・エリアーデ『聖なる空間』より:聖性の中心としての山

宗教学者ミルチャ・エリアーデは、
人間にとって聖なる空間とは「カオスに対する秩序」であり、
世界の中心(axis mundi/世界軸)としての山は、
天と地と人をつなぐ場所であると定義しました。

とりわけ山は、天界と現世をつなぐ“垂直の聖性”の象徴であり、
そこに登るという行為は、内面的な昇華・再生をも意味します。

現代社会では、あらゆる場所が“等価”に感じられますが、
人間の深層意識にはいまだ「特別な場所」があり、
そのような場所を訪れることで、
生きる意味や世界との接続感を取り戻すとエリアーデは語っています。

 

ネイティブアメリカンにとっての山とは

ネイティブアメリカンの多くの部族にとって、山は神が宿る聖なる存在でした。
特にナヴァホ族やラコタ族、ホピ族といった部族は、山を「創造の源」「祖霊との対話の場所」として信仰してきました。

彼らにとって山は、

  • 祈りを捧げる場所であり、

  • ビジョンクエスト(自己再生の儀式)を行う場所であり、

  • 魂の方向を定める“中心”でもありました。

例えば、ナヴァホ族には「四つの聖なる山」があり、
それらは世界の境界線であり、自分たちの文化と命を守る守護者とされます。
そのひとつひとつには、精霊(Holy People)が宿ると考えられており、
山に登ることは、生きる意味を問う内的巡礼でもあったのです。

 

*日本の民俗学者・柳田國男は「山の神は人の暮らしに深く関与し、春には田の神となって里へ下り、秋には山へと戻る」と語っています。
山とは、単なる自然ではなく、『人の祈りと生活の循環を司る“神の通り道”』でもあったのです。

また、宗教学者ミルチャ・エリアーデは「山は天と地をつなぐ世界の中心(axis mundi)であり、人が再び秩序や意味に触れるための聖なる空間である」と述べました。

つまり、山に向かうこと、山を登ること自体が、内なる自己と世界を再接続する“儀式”のようなものだと考えられていたのです。

 

集合的無意識と、世界に共鳴する「山」の記憶

僕がこの山に初めて登ったとき、
それがどこか懐かしく、知っている場所のように感じたのはなぜだろう
最近、そんな問いに、少しだけ答えが見えてきた気がしています。

心理学者カール・グスタフ・ユングは、
世界中の民族や文化に共通して現れる「物語」や「神話」が存在する理由を、
「集合的無意識(Collective Unconscious)」という概念で説明しました。

たとえば、まったく交流のなかった国々に、
“森に入った子どもが導かれるように運命と出会う”という童話が、同時期に語られていた。
あるいは、“山に登ることで、魂が再生する”という神話が、遠く離れた文化に共通して残っている。

ユングはそれを、人間の深層に備わった元型(アーキタイプ)が、
「物語のかたち」や「象徴の風景」として現れるのだと考えました。

そして、山という存在は、
その元型の中でもきわめて強く、「上昇」「超越」「啓示」を象徴するものとして現れます。

つまり、「山に登りたくなる理由」は、
信仰や文化の違いではなく、私たち人間が本能的に持っている記憶の構造から来ているのかもしれません。

そのように考えると、
僕がこの山に呼ばれたと感じたことも、
“ただの偶然”でも“神がかり”でもなく、
自分の中に眠っていた記憶との再会だったのかもしれない、と思えてくるのです。

 

最後に

温泉があり、自然があり、裏山に神社がある。
自然と接続するための場所。
そして、導かれるようにして訪れる人がいる。

都会の暮らしの中で感じる漠然とした不安や、言葉にできない違和感。
それらを抱えたままでも、ここに来てただ火を眺め、風を感じるだけで、
ほんの少し「生き方の輪郭」が見えてくるかもしれない。

そういう場所でありたいと、僕は思っています。

 

 

※ この神社は、地図にも載っておらず(2025年7月現在Googleに限る)、
登山道にも看板がありません。
そのため、道を知らない方は迷ってしまう可能性もあります。

神社の登り口は、静岡県伊豆市姫之湯にある「HIMENOYU MOTHER.」内のカフェスペースのすぐ脇にございます。
駐車場はHIMENOYU MOTHER.の駐車場を無料でお使いいたけますが、万が一沢山の人が訪れるようになった時には別の方法を検討いたしますのでご了承ください。

わかりづらい場所ではありますが、「ここに来るべき人が、導かれて来る」——そんな不思議な力がこの場所にはあるようにも思います。

HIMENOYU MOTHER.住所:静岡県伊豆市姫之湯248-1 営業日 木、金、土9時〜17時
プライベートキャンプ場、Caffeスペース、物販(自社スモークチーチーズ)衣料品、キャンプギアなどの販売を行う施設です。

 

ご注意事項

参拝はどなたでも可能ですが、登山道は一部急勾配で整備されていないため、十分な準備が必要です

滑りにくい靴(トレッキングシューズ推奨)、作業用手袋、飲み水、虫から身を守るための長袖・長ズボンをご用意ください。

標高は約300m。登山道に案内看板はなく、道中には滑りやすく危険な箇所もあります
そのため、登山はすべて自己責任となります。あらかじめご了承ください。

所要時間は、私の足で約30分ほど
登りきった先には、達成感と共に、静かな時間と祈りの場が待っています
手を合わせる価値は、きっとそこにあります。

 

ブログに戻る